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日記

心のこと・脳のこと4⃣2025.8.10

2025.8.10
今年の精神神経学会で大野裕先生の認知行動療法の講義があり、すばらしかったのでまとめてみる。認知行動療法CBTはアーロン・ベックが1960年代に開発した比較的新しいけど世界に広まっている心理療法。

認知とは心の情報プロセスである。認知を通して人は瞬間的に全身反応(感情、自律神経、身体感覚)が引き起こされる。認知には自動思考が伴う。そして自動思考は意識可能・検証可能である。というわけで、捕らわれていることから離れて見る・俯瞰する(focus→distancing)ということに注目したのがCBTの肝なのだ。

情報処理過程では、ネガティビィティー・バイアスによる自動思考(咄嗟の判断)はネガティブである(=本来は防衛本能)
→ 十分量の情報を集める 現実的な判断
→ 適応的思考 →ネガティヴ感情の軽減 →自己肯定感の高まり
そして患者が自身のセラピストになれば、うつの再発率が低下する。

大野先生は愛媛県の高知県境にある人家も乏しい村に生まれた。親の判断で中学に入る時に松山市に下宿させられた。その時のホームシック、簡単な数学の計算もできない自分。おそらくうつ病の状態に至り高校で留年を経験した。この時の体験が精神科医としての支えになっている。
思考の力・・できないと考えているとできなくなる。しかし見守られ支えられるとできるようになる。そして「遠回りだって僕の道」何があっても人生の中で意味がある、そう思えるようになった。患者も、症状を意味のあるものと捉えるような支え方が基本的に必要だ。

オーストラリア・ダニーデンで1000人以上の住人を生まれた時から45歳まで調査したコホート研究では、86%の人が1度は精神疾患の診断がつく状態を経験した。それだけ多くの人が不安やうつを経験していて、しかもその多くは治療を受けずに乗り越えていた。つまり精神疾患の多くは治療せずに治っており、それが人生の意味にもなっている。

カウンセラーに必要な態度としてRogersは:温かさwarms 共感empathy 純粋性genuinenessを挙げている。
CBTでは気持ちに共感する(これは言い切り)→ そのうえで一緒に現実を検証する(協働的経験主義)。

一般に「否定的認知の3徴」とは
自己:自分はダメ人間だ 自分の力では無理だ
周囲との関係:嫌われている 誰にも分かってもらえない
将来:どうすることもできない 万策尽きた

ここに至るのは、何かやり方に間違いがあったということ。そして・・
同じ失敗の繰り返し:フロイトは「想起・反復・徹底操作」で書いている。人は過去の行動を繰り返す。精神分析ではそれを「転移」を使って扱う(これは治療される人もする側もかなりの労力を要する)。同じテーマだがCBTではより直接的に「思考」を扱う。

認知行動療法の型(1回ごとの面接でも、治療全体でも)
・導入(治療関係の構築 データ収集)
→治療(個別スキルの獲得 気づきの定着)
→まとめ(全体の振り返り 再発予防)

言い換えると
・アジェンダの設定(問題となる具体的な出来事)
→問題への取り組み(認知の同定・スキルの選択)
→振り返りホームワーク

治療全体の流れとしては、行動的技法~認知的技法に向かう。
「やってみなはれ、そしてやって見た結果を教えてね」
やって見なければ問題も見えてこない。うまく行かなくても問題が見えてくれば、それは失敗ではない。

2025.5.10
落合陽一のユーチューブ Weekly OCHIAI を見ていると、いろんな分野の最先端の研究者と対談していて面白い。社会学者の石田光規さんの対談が衝撃だった。
孤独は寿命を縮めるか?という研究では、社会的繋がりを持たない人の死亡率は50%以上高く、煙草やアルコールのリスクより遥かに高い。そして孤立死は男性が8割と男女差が際立っている。

2000年代から日本の社会(世界でも)が個人化という方向にどんどん進み、あえて付き合おうとしないと人間関係を作れないようになった。その結果、孤独、孤立化という問題が起こってきた。

孤立死(死後長期間気づかれずに経過する孤独死のこと)をした人の割合を年代別で見ると、50代男性では全死亡の10%だった。孤立死は高齢者だけの問題でなく、むしろその割合は老人より多い。中年男性は仕事していない人のセーフティーネットがない、助けを求めにくいという意味でリスクだ。

25歳~54歳の男性現役世代の調査で、過去半年に何人の人と食事や外出をしたか?という問いで「0人」と答えた人が33%もいたという。
50歳時未婚率は、2020年調査で男性で28%、女性18%だった。今の時代は「一人で楽しむ」、と「誰かと楽しむ」の選択ができるので、そうなると誰かと楽しむのはめんどくさいことになってくる。一人で楽しむことを続けるうちに、人の中に入る体力・筋力が衰えてしまう。

マッチングアプリでパートナーを探すことが増えているけど、ある意味トーナメント戦であって、自分は何万人もの中の選択枝となる。選ばれないことが続くと、自分に価値がないと思ってしまうこともあるらしい。
あるいはSNSを介した仲間関係は偏っていて、エコーチェンバーからカルト化して妙な方向に進む恐れがある。

「親友」という言葉の使われ方がずいぶん変化しているという。過去の新聞を調べると80~90年代では投書欄などで「親友とカラオケ行った」などと普通に使われていた。2000年代になると新聞では、高校野球の友情物語がこと更に紹介される。若者がワンピースのように率直に言い合える関係に憧れを抱いたりと、「親友」は物語上のものになっている。
現実ではそんなドラマチックな関係は存在しないのが普通だ。でも親友とか友情がない自分というものが、逆に意識されすぎていいる時代なのかもしれない。

村社会あるいは血縁関係の社会では人が集まる「場」があって、そこに行けばあるいは居るだけで人と触れ合えた。だから発達障害のような特徴のある人もその中の一員として存在できた。今はネットを通じた個々人の繋がりが中心になり、約束しないと人と会えない。その手間が入ることで、コミュニケーションが得意でない人を孤立化させる社会なんだろうと思う。