2023.9.12
脳と体には年齢的な限界があるから、いつまでも今の仕事を続けることはできない。それに、ただ1度の人生なんだから今の仕事以外のこともしてみたい。そうじゃないと死ぬと時に後悔しそうな気がする。どうせ何かを始めるなら、早い方がいいだろうと思う。
だけどそれを考えると、途端に不安でいっぱいになる。
自分自身で困ったなと思っているのはこんなことだ。
休日の2日間、何も予定を入れないで過ごすと必ず不調になる(1日ならいいんだけど)。それはもう何十年も週末を経験してきて、自分にとっておなじみのパターン(自分の特徴なのか、あるいは人間一般に共通したものなのか?)。とにかく「予定のない2日間は怖い」。
仕事を辞めるとしたら、決して途中棄権しないしっかりしたやるべきことを決めておかないと・・もし毎日が休日になったら地獄になるだろうから、そこが一番の問題なのだ。
学生時代・・休みが続いて予定なく下宿にいると、必ずダメダメになった。自分が小さな存在に思えてきて友達を誘うこともおこがましく、どんどん内に籠って行く。お菓子をダラダラと気持ち悪くなるまで食べ、肺が痛くなっても煙草を吸い、とことんダメな自分に落ちていく。一旦そうなると、もはや自分で自分をコントロールできない。
負のスパイラルを止めるのは誰かが訪ねてくれるか、出かける用事か、外的なものに頼るしかなかった。
暇な時間が苦手というのはなぜだろう?リゾートに行くと西洋人なんかビーチやプールサイドで日がな一日寝転んで過ごしているけど・・。そういう時間の過ごし方が自分にはできない、のんびりできないんだよな。
温泉につかっている時・・いくらリラックスしようとしても頭の中は忙しい。ちょっと熱いとか、顔が痒いとか、あれ?ちょっとおしっこしたいかも?とか。予定している1時間の時間配分とか、温泉出たら何飲もうとか。
そういう今気になること以外にも、脳が勝手に動き始める。過去のことが思い出されて—大抵は後悔すること・自分が嫌になることなので—「あ~もう!!」となる。そうなると湯船にジッとしていることが苦痛になって、ザバッと音を立てて上がってしまう。
地球環境の変化や戦争やらで、人類の存続が問われているこの時代。そういう差し迫った問題が見えないかのように仕事をする。消費社会の日々の活動は二酸化炭素を排出して資源を使うことだらけだ。大きな目で見たら苦労して仕事して、地球の持続不可能を推し進めているだけのように思う。しかも世の中全体見渡すと、それほど重要じゃない目の前の仕事のストレスで、うつ病になる人がたくさんいる。
仕事にはストレスが付き物だ。分からないことは苦労して調べなければならないし、人との関係でストレスを与えられたり与えたり。こういう日々の活動が何になるんだろう?と思う。だから今の人間社会の多くの仕事に、実はあまり意味を見出せない。
そうはいっても、自分自身は仕事をすることで救われてきた。それは日々やることがあること。もしこれまでの30数年間仕事というものが無かったら、今のように健康を保てなかったのは明らかだ。
以前は第二の人生はラーメン屋をやろうかと、ちょっと真面目に思っていた。ラーメンが大好きなのと、自分が作ったもので喜んでもらう、客とのあっさりした出会いがいいよな~と思った。でもそれは、今の仕事からの逃げでもある。
物づくりの技術に没頭すればよく、責任の重さはなく、対人関係は間接的になる。かといって持続不可能な社会の歯車から抜け出せるわけでもない。まあ、良く言って趣味の世界だな。
そうしてみると、ここまで人生経験を経て最終的にラーメンを作ったところでどれだけの意味があるんだろう?となってしまう。
とりあえず実感として思うのは、自分の脳は無為に過ごすことに向いていないということ。だけど犬もそうだと思う。だって留守番させられている犬が、飼い主が帰宅すると「退屈だったよ~!!」と言わんばかりに狂気乱舞する映像を、ユーチューブでよく見るから。その時の気持ちは多分、自分が子供だった頃と同じだ。
現代人の脳の体積は縄文時代(または旧石器、新石器時代)に比べて、小さくなっているという話を聞いた。脳の情報処理は縄文時代のほうが多かったというわけで、それは理解できる話だ。なぜなら自然の中で生きる人間は、常に外界の不快な状況(暑さ、寒さ、雨、雪、風、虫)に対処し、食べ物の確保を考えていなければならない。農耕民、現代人のように型にはまったパターンで生きることはできなかった。
だから人の脳は、生存維持のためにマルチ型の能力(縄文型能力)を発揮するように元々出来ているんじゃないかな。
学生時代はテントを背負って長期間移動する登山(縦走)をしていて、縄文人と似た活動だと思う。西の空を見て天気を予想し、太陽の位置からその日終わりを感じ、日々の食料や水の配分を考える。濃密な人間関係の中で悩んだり一緒に喜んだり。そうして目覚めている間ずっと脳が働き、脳自身はそれを心地いいと感じるんじゃないかと思った。
ちなみにいつも下山してから1週間ぐらいは、経験のないほど自信に満ちた自分でいられたのも不思議なことだった。
おそらく自分に限らず、人の脳は何もすることがない状況は苦手なんだろう。大脳辺縁系を中心に生きている動物は単純に本能や情動に沿って、刺激→反応→行動というパターンで、刺激がなければ無為でいられるのかもしれない。
けど人は大脳新皮質が発達してしまったがために、勝手に過去のことが思い浮かんだりこれから先のことを想像して、思考のループに入ってしまう。思考するだけで行動できない状態は、多分あまり心地いいものではない気がする。
その極端な状況として、感覚遮断の環境に置かれると幻覚が現れる。
脳がマルチな能力を発揮する、体が脳の指令にしなやかに応じる。その体の動きはフィードバックして脳に刺激を与える。そういう循環そのものが心地よさや幸福感になるんだろう。留まって考えても澱んでしまうわけで、生きる実感は常に動いて進んでいく中で、自然に生まれてくるのかなと思う。
・・考えてるとますます難しくなってきた。今の仕事を続けるにしろ別の何かをやるにしろ、脳にとっては心地よく働いていることに意味があるわけで、何をすれば幸せで何をすればそうではない、という単純な問題ではないということなのかなと思う。