2025.2.16
タマが、所属する劇団の30代女性に「え?タマちゃんのだんなさん、インドにも行ってたんですか?山に登ってたと聞きましたけど、インドにも?」「それって80年代によくあったと言われる自分探しの旅ですか?どんだけ自分を探してたんですか!?」と言われたという。
それを聞いた私は「え?自分探しの旅は80年代の流行りだったの??」。若い日のモヤモヤをたった一言で定義づけられた気恥ずかしさ。でも「なんだかそんな気がしてたんだよな~」と腑に落ちる気もした。
自分がインドを旅した80年代は「自分探しの旅」という言葉はまだ使われていなかった。多くの若者が小田実の「なんでも見てやろう」を読み、バックパックを背負ってインドに行った。藤原新也の「インド放浪」がバイブルとなり繰り返し読んだ。
「不確実性の時代」や「モラトリアム人間」を読んで、アイデンティティーという言葉を使うのがトレンディーだった(トレンディー??)。
少し経って「自分探し」という言葉が使われ出し、社会に適応しにくい若者たちが「終わらない自分探し」と揶揄されるようになった。そして自分もちょっと下の世代を「軟弱になったもんだ」と思ったりした。だけど振り返ると・・自分こそが自分探しの張本人だったんじゃないか!
80年代の「自分探しの旅」は確かにその時代の空気だった。それをやったことで何がどう変わったの?ということなんだけど、プラス面マイナス面、両方あったと思う。旅に出る前は自分が根本的に変わるんじゃないか?と過剰な期待があったけど、結局そんなに変わらなかった。でも世の中を広く見渡して、自分の置かれている日本・大学・家、そういう環境がどういうものなのかを離れた視点で捉え直すことはできたと思う。
その旅は複雑で総括することができず、これまで放っておいてある。
親や社会という縛りから解き放たれ、初めて一人で立つ自由を謳歌していた。それは思春期にやるべき課題を20歳になって体験したことで、同世代に比べると周回遅れだったと思う。旅は今でも人生の花だったし、旅をしたこと自体は後悔していない。でもあまりに自意識過剰で人の役に立たず、そればかりか迷惑を掛け散らかしたという思いがある。
自分探しには麻薬性があったと思う。旅から戻っても学生というぬるま湯に浸り切り、結局ずっと自分探しばかりしていたように思う(これぞモラトリアム人間)。苦しんでいるような振りをして現実に向き合っていていなかった。気が付くと卒業の時期が来て、押し出されるように慌てて進路を決め、仕事に就き、今だにこの仕事してていいんだろうか?という思いを引きずっている。自分こそが「終わらない自分探し」の代表取締役だったんじゃないのか?!
30代女性の劇団員にとって「自分探しの旅」は理解困難なことらしい。今の時代、自分探しは過去の概念なのかもしれない。今の若者は自分探しをしないのかな。じゃあどうやって自分を探すんだろ・・探さなくても大体わかるということかな?それとも分かる必要がないのかな?
