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散文

ネガティブケイパビリティ2025.4.19

ネガティブ・ケイパビリティという概念。「帚木蓬生」先生(東大文学部を出てから九大医学部を出て精神科医になり小説家でもある)の本で知った。
帚木先生は英語の精神科雑誌論文からこの概念に出会った。その論文ではイギリスの精神分析家ビオンが、詩人キーツにその概念を見出したことが紹介されていた。ネガティブケイパビリティを知ることで、先生は精神科医としての職業生活・作家としての創作活動共にずいぶん楽になった・・踏ん張る力がついたという。

19世紀イギリスの詩人ジョン・キーツは「詩人にはアイデンティティがない。自己というものがない。それを必死に模索する中で物事の本質に近づく」と書いた。キーツはシェイクスピアにそういうものを見出した。曖昧さを受け入れることで、より深い洞察や創造性を生み出すことができると考えた。
宙ぶらりんの状態を耐える力・・「疑問、矛盾、答えのない状況など不確かさの中で、状況を持ちこたえ、不思議さや疑念の中にいる能力」がネガティブケイパビリテイだ。

ビオンは170年前のキーツの書簡からネガティブケイパビリティを発掘し、精神分析医にもこれと同じ能力が求められると説いた。精神分析学に蓄積された膨大な知見・理論の学習や応用にばかりかまけていると、目の前の患者をそれに当てはめてしまい、生の対話がおろそかになる。見える物が知識の範囲のみになり、解釈は理論の枠内の陳腐なものになってしまう。
ビオンはあるセミナーでフランスの作家モーリス・ブランショを引用している。「答えは質問の不幸である」「答えは好奇心を殺す」。

我々が子供のころから受ける教育は「記憶と理解」を持ち、将来を見据えてひた走ることだ。逆にビオンによれば「記憶もなく、理解もなく、欲望もない」状態、つまり無垢な子供の状態がネガティブケイパビリティを培うという。
現代はポジティブケイパビリティに偏っている。知識を詰め込み、試験ではそれを使って課題をこなすことが求められ、小学校から大学までの教育ですっかり染みついてしまう。でもそれは表層的な問題のみ対応する能力であって、逆に深い所にあるものを見えなくする。

医学教育なんか、これまで積み重ねられた知識をこれでもかと暗記させられる。そうするとすべてが解明され疑問の余地がないような気にさせられる。臨床場面ではこの病気にはこの順に検査と治療・・とアルゴリズムが決まっていて創造性がない。
世の中全般に、どんどんマニュアル化が進んでいる。接客対応やいろんな契約も、マニュアルによって曖昧さとリスクが排除される。これこそポジティブケイパビリティの極みだと思う。

人の脳そのものが分かりたがるという癖がある。何かわけのわからないものを前にすると戸惑う。例えば初めてクラッシック音楽を聴いたとき、多くの人が「分からない」とさじをなげる。抽象画も同じ。でもただ味わうという姿勢でいると、分からなくても伝わってくるものに気づくようになるという。
謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんの状態を耐えること。その先には深い理解があるかもしれないということ。本当は人生とか社会というのは訳が分からず、どうしようもない事柄に満ち満ちていて、対処可能な事柄よりずっと多いのかもしれない。

医学では病気を治すことが教え込まれる。SOAP(Subject主観、Object客観、Assesment評価、Plan計画)に沿って診療録も記載される。でもそのやり方だと、終末期に至った患者に対峙した時医療者は無力感に捉われ、患者の所に行く足が重くなりがちだ。

緩和ケアでは問題解決思考が通用しない。特に身体科より、精神科医の立場は非常に難しいと思う。主治医ではない、家族でも友人でもない、宗教家でもない、ただの第3者だ。精神的苦痛に対して積極的な治療法はないという意味で専門性がない。患者の前にただ居るということの難しさ。精神科医が訪問することに抵抗を感じる患者は多い。その抵抗を突破していくべきなのかどうか?は個々に違うだろう。そして精神科医の人格が問われる。これは知識と経験でだれもができるとは思えない。難しすぎる仕事だと思う。

一般精神科臨床はどうかというと、やはり問題解決思考に捉われる傾向があるように思う。患者の異常体験や精神変調を平常な状態に戻すのが医師の仕事だという思いがあるから。でもそれが行き過ぎると、患者不在になってしまう。
ここでネガティブケイパビリティという概念はとても役に立つと思う。緩やかな関係を保つ、いつでも相談に乗る、一緒に考えたり困ったりする、患者の良い所を少しでも言語化する、というようなことは日常診療の基本だ。患者の困りごとは大抵そう簡単に解決しない。
患者の人生を長い目で見た時に、自身で少しづつ解決していくこと、それを見守り支えることが一番大事なことだろうと思う。患者にちょっとしたヒントを与えたり、患者に芽生えた希望を支えたりする手助けができたらある意味充分だとも思う。

箒木先生が九大精神科に入局した時、新人たちで中尾弘之教授に挨拶に行った。他の新人医師が「精神科医として一番大事なことはなんですか?」と問うたという。その時の答えが「親切」だったそうで、みんな拍子抜けしたらしい。でも結局そういうことが大事なんだと思う。「共感」なんて言葉を使ってると上滑りしてしまう。