ネガティブ・ケイパビリティということば。東大文学部を出て九大医学部を出て精神科医をやり、小説家でもある「帚木蓬生」先生の本から知った。
帚木先生は精神科雑誌の論文からこの概念に出会った。その論文でイギリスの精神分析家ビオンが詩人キーツにその概念を発見し、影響を受けていたことを知る。先生はこの概念を知ることで、精神科医としての職業生活・作家としての創作活動共にずいぶん楽になった・・踏ん張る力がついたという。
19世紀イギリスの詩人ジョン・キーツは「詩人にはアイデンティティがない。自己というものがない。それを必死に模索する中で物事の本質に近づく」と書いた。曖昧さを受け入れることで、より深い洞察や創造性を生み出すことができると考えた。
その宙ぶらりんの状態を耐える力・・「疑問、矛盾、答えのない状況など不確かさの中で、状況を持ちこたえ、不思議さや疑念の中にいる能力」がネガティブケイパビリテイだ。キーツはシェイクスピアにそういうものを見出した。
170年前のキーツを発掘したビオンは、精神分析医にも詩人や作家と同じ能力、ネガティブケイパビリティが求められると説いた。精神分析学に蓄積された膨大な知見・理論の学習や応用にばかりかまけていると、目の前の患者をそれに当てはめてしまい、生の対話がおろそかになる。なまじっかの知識で物事を見ると、見える物がその範囲のみになる。そうすると解釈は理論の枠内の陳腐なものになってしまう。
ビオンはあるセミナーでフランスの作家モーリス・ブランショを引用している。「答えは質問の不幸である」「答えは好奇心を殺す」。
ところが現代は、ポジティブケイパビリティが大事とされる世の中だ。問題を効率的かつ迅速に対処する能力。これは小学校から大学まで、ずっと求められて現代人に染みついている。試験ではスピードと正確さが求められる。でもそれは表層的な問題のみ捉える能力であって、逆に深い所にあるものを見えなくする。
特に医学教育など、これまで積み重ねられた知識をこれでもかと教え込まれ暗記させられる。すべてが解明され疑問の余地がないような気にさせられる。この病気にはこの順に検査と治療を・・と標準化され、いかにそれを踏み外さないかが大事とされる。
我々が子供のころから受ける教育は、「記憶と理解、こうなりたいという欲望」を持ちひた走ることだ。逆にビオンによれば「記憶もなく、理解もなく、欲望もない」状態がネガティブケイパビリティを培うという。
今は何事もマニュアル化するのが時代の流れだ。接客対応も、いろんな契約も、マニュアルによって曖昧さとリスクが排除される。近い将来、人間の医者よりAIが信用できるようになるだろう。
ポジティブケイパビリティの志向は人間の脳の特徴でもある。脳は分かりたがる。何かわけのわからないものを前にすると戸惑う。例えば初めてクラッシック音楽を聴いたとき、多くの人が「分からない」とさじをなげる。抽象画も同じ。でもただ味わうという姿勢でいると、分からなくても伝わってくるものに気づく。
謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんのままの状態を耐えること。その先には深い理解があるかもしれないということ。
本当は人生とか社会というのは訳が分からず、どうしようもない事柄に満ち満ちていて、対処可能な事柄よりずっと多い。