久慈~小袖海岸へ 船渡海水浴場
不思議の国の北リアス
心のこと

心のこと・脳のこと2⃣2023.

2023.11.7
現代の子育ては難しいだろうなと思う。まだちっちゃくて親の付属物みたいな時はいいけど、小学校に入ってからはもう大変になりそうだ。

まずめんどうだと思うのがSNS。中学生~小学生でスマホを持つ時代になった。規制を掛けるとしても、子供同士SNSで繋がることは止められない。「イジメはだめよ」という社会通念は浸透して、その点昔に比べて良いんだけど・・でも大人の見えない所に潜行した虐めは消えると思えない。
面と向かっての虐めに比べて、一方的でまた集団になりやすいネット虐めは陰湿で子供を深く傷つけるだろう。小・中・高と、そういう無意味で危険なサバイバルを生き残って行くには、相当に強くて優秀な遺伝子が必要になるんじゃないかと思ってしまう。

同じくネット関連で、映像やゲームに依存する問題。専門家は端末を使う時間とか場所に規則を設ければよいと言うけれど。ADHD傾向がある子は依存しやすく、それを規制しようとする親とぶつかる。特に思春期に入ると基準を守ることも難しくなる。かといってまだ判断能力が不十分な思春期の子を自由にさせるのは、親の義務を放棄するようなもの。
昔だったら「未成年がしてはいけないこと」ははっきりした基準があり、パチンコはできなかった。でもネット社会になって、子供にとって「してはいけない」基準が曖昧になってしまった。

それから進路選択も難しい。近代までの社会だったら、単純に勉強ができる子は頭を使う仕事、できない子は体を使う仕事に進めばよかった。もっと前の第一次産業中心の社会なら、個々人の能力はそんなに問われなかった。
でも現代社会だと大半の仕事に知的能力やコミュニケーション能力を使う。体力を使うだけの仕事となれば時給が安く、経済格差が大きくなって未来に希望が持ちにくい。そういう人が幸せになれないか?といえばそうではないんだろうけど、社会的価値観に全く捕らわれないで生きることは難しい。
自分に合った無理のない職業選択がしくいのは窮屈なことだ。子供は大変だし、親もつらいよなと思う。

もうすこし俯瞰した目で見ると・・AIやロボットが活躍するようになれば、多くの労働力が要らなくなる。働くのはごく一部の人間で、その他大勢は生活保護や年金の支給によって生活するようになる。人が社会の歯車として生きることが必須ではなくなる。そういう社会への過渡期なんだろうと思う。子供が限られた職業選択の中から、必ず何かを選ばなければならないという縛りはなくなっていくのかもしれない。

2023.7.1
おとといの晩、ふと気づいたことがある。自分としてはわりと大きな気づきだった気がするのだけど・・上手く言葉で表現できるのかよくわからないが書き出してみる。

30年前はどんなに脳の形態とか神経病理が進歩しても、複雑な心理学とは大きな乖離があると思っていた。でも心理学的アプローチよりも生物学的な研究がどんどん進んで、いつのまにか脳科学が心理学にかなり近づいてきた。
そして人の脳は不完全なんだと気づいた。ちょっとしたことでバランスを崩すのは、その人の「精神病理(心理学的問題)より脳の構造による」と考えた方が分かりやすいように思った。
「前頭葉眼窩野」は辺縁系からの神経投射が多く、情動と動機に基づく意思決定に関係すると言われていて、人の性格に関係するらしい。その形状は個人差が大きいとも言われる。

「神経症、パーソナリティー障害」「適応障害」という診断を受けた人たちと、診断を受けていない人たちは地続きだし自分も同類だ。そもそも、それこそが人間らしさなんじゃないか?と思った。
今の社会は当たり前のようにコミュニケーション能力と成果を求められ、適応することがとても難しい。仕事は効率的にミスなくこなせ、周囲の人間と摩擦なく接し、仕事のストレスは自宅で解消し、日々の生活で疲労を残さない。そのどこかがうまく行かなければ容易にバランスを崩し、うつ状態に陥る。それは異常ではなく人間の普通の姿なのだ。身体疾患と同類の「患者」とか「治療対象」ではないように思う。

自分がなぜ精神科に進むことしたのか?というと、思春期があまりに苦しかったことが根元にある。過剰な自意識と孤独、内から湧き上がってくるリビドー(性欲動・対人希求)と人前に出ることの恐怖・・自分の部屋に籠っている時しか本当の自分でいられなかった。そんな自分は世界でも2人と居ない醜く特殊な存在で、姿形も内面もすべてが嫌だった。
しかしずっと遠くにボンヤリと光が見え始めた高2の頃かな・・世の中にはきっと同じように苦しむ若者がいるだろう、自分はその人にサバイバーとして本当に共感できるんじゃなか?と思い、答えを見出した気になったのを覚えている。
人の脳の発達には時間が掛かる。まず辺縁系から発達し、大脳皮質の中でも前頭前野が最後に成熟するのは25歳という。その途中にある思春期は欲動が強くて行動を制御する力が弱い。だから自分を持て余して苦しむ。思春期は脳の発達過程から苦しむように出来ている・・なんて不完全な!と思う。プラス面もあるんだろうけど、リスクが大きすぎる気がするなぁ。

自分は幸いにも、周囲の人のお蔭でぎりぎり生きながらえてきたなと、今は振り返ることができる。でも今でも自分の心は日々揺れ動き、すべて無意味に感じることもある(結局生きている理由なんてあるのかな?と)。
日々の生活の中では、職場や身近な人たちの多くが問題を抱え悩んでいる。外来では、なんでこんなに苦しんでいる人が多いんだろうと感じる。全体を見た時、人生の苦しみの総量は喜びの総量よりずっと多いんじゃなかろうか?
一方で・・庭の小鳥の餌台には毎日雀が集まってくる。雀の動きは躍動していて餌を見つけた喜び、食べる喜び、親子で餌をあげたり受け取ったりする喜びに満ちている。自然界の生き物はみんなそうだよなと思う。
人の気分の揺らぎ(調子の良しあし)、自分を持て余す感じ、これらも結局脳に帰結するんじゃないのかな?

精神科外来でよく目にする診断「神経症、パーソナリティー障害」、これらは最近「適応障害」にシフトしてきているんだけど・・。これらの病因として、以前は精神分析的な理解が王道だった。育ちの環境に原因を探して、無意識に潜んでいるトラウマ的体験を意識化し、解釈するというようなことが根治的な治療として想定されていた。
ところがそのようなアプローチは、実際には効果的でなかったというのが今の実感だ。ただアプローチをする過程で、患者さんに寄り添いわかろうとすることが癒しになり、自己価値を取り戻し元気になる。そこに治療的意味があるわけで、古典的分析で言うように治療者は「白いキャンパスのように中立的」な存在で治療効果を現わすわけではないと思う。

(続き・・7.2)
ある患者さんのことなのだけど・・その人は「ちょっとしたことでカッとなる」ことで相談に来ていた。そのパターンは自覚しているし周囲にも指摘される。家に帰ると「またやってしまった!自分はどうしていつも顔に出てしまうんだろう?」と自分が嫌になるという。本当に辛そうだ。
脳科学的にはげっ歯類から始まるらしい古い脳(扁桃体とか視床下部あたり)が、条件反射で怒りの情動を発現する。人はそれを覆いかぶせるように前頭葉が発達しているから、怒りの情動が引き起こす結果を予測して抑えようとする。でも瞬間的には本能からくる情動が勝ってしまうで、表情や行動に出てしまう。時間が経って落ち着くと前頭前野が冷静に働き、コントロールできなかった自分が自覚させられる。

人の脳は奥の方から脳幹(反射脳―爬虫類)、大脳辺縁系(情動脳ー哺乳類)、大脳新皮質(理性脳ー人間)の3層構造になっているというのは、生物学でよく言われているけど・・その脳の構造が問題を起こすということなんじゃないのかな?
「わかっちゃいるけどやめられない」という嗜癖とか、日々の葛藤の多くは、情動脳と理性脳のパワーバランスから来ていると思う。急に発達しすぎた大脳が本能をコントロールしようとするけどできない、という不完全さが葛藤や自信喪失やらの原因となっているように思う。人の脳は不完全なのだ。そのことを自覚すれば、少しは自分を否定せず客観的に捉えられるんじゃないのかな。

そういうわけでまだ漠然としているんだけど、外来に通う人たちも周囲の人たちも自分も同じ・・結局脳の不完全な構造によって振り回されているだけなんじゃないか?という気がしてきたのだった。

2023.6.24
今週はなんとなく体調がすぐれなかった。朝ぱっと目覚めないし、一日中脱力していてやる気が起きない。22日の晩、ふと何もやることが無いなと・・本を読む、テレビ見る、パソコンを開く、そのどれにも興味が沸かない。でも普段やることといえば、それに加えて酒を飲むことくらいしかないんだよな。

そのどれも意味がないと思った。心のエネルギーが切れると、人間はただのロボットだと思った。人間が行動するときの根拠ってなんだろう?根本的に分からなくなった。

2023.5.28
先日YouTubeで見た内容なんだけど、ナルホド!とためになったので書いておきたい。その人は慶応大学医学部卒で、日本の国家試験と同時にアメリカの医師国家試験も最上位で合格した秀才。「効率的な学習方法」について語る内容は、自身の経験と論文検索をしてエビデンスに基づいたのものだ。

非効率的な学習法
①繰り返し読む。教科書や参考書をとにかく読み込むこと。勉強法として世界でも一般的になされているという。学生を1回、2回、3回・・と読んだ同数のグループに分け、一定の時間を置いてテストを行う。そうすると1回目と2回目で差があるものの、それ以上ではそれほどの差がない。時間が経つと忘れてしまうのだ。
②線引きやラインマーカーを使って読み込む(これ、ワシが良くやるヤツ)。意外なんだけどこれも同様の結果だった。まあ見返す時には役立つと思うけど。

効率的な学習法
①アウトプット。一回頭に入れたものを人に教える。そこに人が居なかったら、教えているつもりでしゃべる。目の前の教科書を見ながら「閉じてそらんじる」。要はアウトプットする時にしっかり記憶されるのだ。
②単純暗記に関して・・覚えやすいものに置き換える。例えば数字、英単語など。そのまま繰り返すだけでは記憶に定着しない。自分の空想の世界を作りその中に画像・映像を作り出して入れ込んでいく。ちょっとびっくりするようなエキセントリックな空想の世界を作り出せたらもう忘れない。

これは自分の実感としてそうだと思った。受験生のころ・・教科書はまず徹底的に理解する。それができたら、あとは問題集に時間を掛けるようにしていた。
人に教える機会があればそれが一番記憶に定着すると思う。生徒は一番の教師なのである。だから社会科の先生なんかは、頭に知識が盛りだくさんなんだろうな。

2023.5.28
朝から雨の日曜日。
窓外の小鳥の餌台に玄米を食べにくる雀たちを見ながら、読売新聞の早稲田大学社会学教授、石田光規先生「ゆるやかに人とつながろう」が目に留まった。自分自身、いつか社会から離れて孤独な老人になってしまうんじゃないか?という不安があるんだよな。

SNSの発達とコロナ禍が相まって、人間関係に大きな変化が起きている。以前は学校や職場の集団に属し、その中で仲良くなっていた。今は特にパートナー探しなど、スマホで検索して相性の良さそうな人とピンポイントで結びつく。必要な人、必要のない人に分けられて中間がない。人間関係を自分で選びデザインできる。そうなると自分も相手にブロックされる可能性があるので、場の空気がギスギスしないように気を使い、今の若い人は議論しても自己主張しない。

コロナ禍を経て学校や職場の懇親会が廃れ、自分から積極的に近づかなければ取り残されてしまうようになった。受け身的な人たちが参加する場が消えた。「人それぞれ」「個性や多様性の尊重」という風潮の中、孤立が深まっている。

今後は結婚経験のない人が増えていく。シングルの人ほどつながりから切り離されてしまいやすい。うまく繋がりを築く人はいいけど、積極的なアクションが苦手な人がいる。コミュニティーカフェを開けばそこが居場所になって助かる人もいるけど、行けない人は行けない。それを自己決定と見なして切り捨てていいのだろうか?

石田教授は言う。今は目の前に人が居なくても繋がりが持てる時代だ。そういう時代でも、やはり損得ばかりでない合理的でない人間関係が必要なのではないか?と。お互いに反りが合わないと感じつつも同じ場所にいるような、それぞれの距離感を保ちながら一緒にいるような空間・・そいうものが必要なんだと。

これからの社会、強制力を感じさせない程度にゆるやかにつながっておく仕組みがもっと必要になると思う(これ・・自分のためにもそう願いたい)。具体的な方策はこれからなんだと思うけど・・行政もだけどNPOなんかが得意な分野かもしれない。
若い人の方が孤独をより強く感じているという調査結果がある。それも心配だなーと思う。

2023.2.23
「カズレーザーと学ぶ」という番組で、記憶に関して最先端の話題があった。視覚・聴覚などの感覚刺激は決められた大脳皮質に投射され処理された後、短期記憶として海馬に蓄えられる。それが数分から数日の間に大脳皮質に送られ(この時睡眠が使われる)、長期記憶になる。

長期記憶は3種類に分けられるという。
1.エピソード記憶:経験、出来事、思い出など。
2.手続き記憶:自転車など体が覚えたもの。
3.意味記憶:言葉の意味、数式など。
この中で1.2は覚えようとしなくても勝手に残るのに、意味記憶は覚えづらい。そして受験勉強や仕事に必要な記憶はこの領域にあたる。努力と忍耐を要するので辛いし、しかも時間が経つと忘れる。自分は記憶力が悪いと思い込んでいたのだけど、実は意味記憶について言っているに過ぎなかったわけで、1.2.については別に記憶力悪くないよなぁと思う。

脳は自動的に記憶を選別しており、生き残るのに必要な記憶が優先される。不要な記憶はミクログリアがシナプスを吸収して消していく。そして脳は、感情が大きく動いたものを重要と判断して優先的に残す。喜怒哀楽、特に「怖い」は残りやすい。「嬉しい」でも良く、これらの感情と共に記憶するのかコツだという。

そういえば自分が大学受験の勉強をしていたころ・・やる気出なくてダラダラ時間ばかり掛かって捗らない時、ぜんぜん頭に残らなかった(この時、自分はホントに頭が悪いと思った)。逆に分からなかったことが分かるようになり、知識と知識が結びついた瞬間「あ、そうだったんだ!」という嬉しさに高ぶるとどんどん勉強が捗り、効率的に記憶できる実感があった(この時自分は無敵だと自信過剰になった)。

要は、勉強する時に感情の高ぶりをどうやって作り出すか?その時間をどうやって増やすか?が鍵なのだ。そういえば大学時代の定期試験前、毎度どうしても勉強に向かえないことに苦しんだ挙句、部屋の中をぐるぐる歩き回りながら馬鹿な指揮者になりきり、モーツァルトの交響曲41番(ジュピター)を聞いて気分を高めた。一曲約30分だが、不思議なことにほぼ確実に集中力と記憶力が上がることを見出した。

番組でもう一つ面白かったのは、オプトジェネティクスという技法でマウスの海馬を調べたところ、記憶の種類によって使われる部位が決まっているということ。「時間・空間記憶」と「他者」の記憶で使われる部位が全く違う。

自分の場合人の顔認知が良くなくて、髪型が変わったりすると途端に分からなくなることがある(時々都合悪くて、覚えてるふりしなければならない)。でも一度行った場所は忘れないし、空間的な記憶は良い方だと思う(子供の頃から地理が好きだった)。人のこと思い出す時、妙なことに「住所が○○の人」という所を起点に出てくることが多い。この記憶の得意・不得意は、備わっている海馬の特徴によるんじゃあなかろうか。

2023.2.5
自分が仕事を始めてまだ2年目の頃、大先輩のA先生に勧められて「ピーター・ブロスの青春期発達論」を読んだ。この古い本が、長年疑問に思っていた鍵穴にぴったりはまる鍵のように感じた。ちなみに「青春期 adolescence」は精神発達、「思春期puberty」は身体発達で使われることが多い。でもどっちも含まれる言葉としては「思春期」が一般的だ。

概略はこんな感じ。
小学生年代までは心的エネルギー(リビドー)は安定して親に向かっている(葛藤が少ない)。
前青春期(小学生高学年)になるとリビドーは一部同世代に向き始め、ギャングエイジと言われる躁的時代を迎える。
前期青春期(中学生年代)は最も不安定な時期。二次性徴に突き動かされて、母親と距離を取らなければならなくなる。引き剝がされた浮動性リビドーは同性の友人に向かい、友人関係が特に大事な意味を持つ。孤独に苦しむ時期でもある。
後期青春期(高校生年代)はリビドーが同性から異性へと向かい、親からはっきりと自立していく。
青春期後期(~20歳)は自己同一性に向かって試行錯誤をしていく時期となる。

仕事し始めた頃の自分は、思春期に特別なこだわりがあった。自分自身のそれがあまりにも辛すぎて、ほとんど生死を彷徨うような状態だったから。その時代をきちんと定義して、今苦しんでいる人たちのためになったらいいだろうなという、漠然とした思いはあった。
でも一方で、臨床での思春期の子たちは難しすぎて「自分には対処困難」とも思っていた。

自分が思春期だった時代ははっきりとした反抗期があって、目に見える自己主張(長ラン、短ラン、制服裏地が真っ赤、剃り込み、サボり、煙草、バイクなど)があった。親や教師に注意されてそれにまた反発するという、それが中学生としてカッコいい姿だった。ちょうど「3年B組金八先生」がその時代を切り取ったみたいに放送されていて、中学生のほとんど全員が見ていたなぁ。校内暴力が普通にあって、そのちょっと後の世代では教師への暴力とかもあった。

でもその頃の自分は、急に変なことをしだす同年代を醒めた目で見ていて、むしろ親や教師の大変さの方に共感していた。一方では親も学校もすべて否定したい願望ーものすごく破壊的なことも空想していた。親に面と向かって反抗しなかったけど、頭の中では全否定していた。生まれてきたことに意味のない、ただ生きているだけの、こんな大人にはなりたくないと。
直接ぶつかることはなかったけど、でも親を否定して離別するということを自分の中でしていたんだと思う。それは虫が蛹の中で一回ドロドロに溶け、そのカオスからもう一度体を作り替えるような、おぞましくも孤独な作業だったんだと思う。自分は本当に虫みたいだった。

だけど、最近はその時代とずいぶん違ってきたように思う。中高生の自己主張(反抗期)が無くなったー全くなくなることはないんだろうけどー目に見える形のものはあまり見られなくなった。思春期の子たちに何が起こっているんだろう?

昔は大人が子供に価値観を押し付けることが普通だった。思春期にそれを窮屈に感じて反抗して、殻を破るという作業が分かりやすくあった。そしてはっきりと親から離れる。でも今は子供の人権が尊重される時代になったので、そもそも大人による枠がハッキリしなくなった。思春期が「葛藤と自立」とか「異性との出会い」とか、人生の春にもたとえられる劇的な時代だったものが、なんだかのっぺりとしているように見える。

最近、日本だけではなく韓国でも中国でもある程度余裕のできた世界中の国で、若者が無気力になっている。中国では「躺平(タンピン)族」が社会現象となり、今後の発展への影響も心配されている。日本では引きこもる若者が増え、長期化し、高齢化している。いろんなことが複合的に影響を与えているんだろうけど、親からのはっきりとした自立がないことも理由の一つになっている気がする。

2023.2.4
またまたリエゾン(第3話)・・見てしまいました~。
就学を前にしたASDの子供と、その親の葛藤について取り上げられていた。親にとって障碍受容がどれだけ大変なのか丁寧に描かれ、その時専門家が付き添っていることの大切さがよく分かった。

就学時、子供は親の元から少し離れて社会に入っていく。その時「いじめ」という問題に向き合うことになる。ASD傾向は確かに、身体障碍のように目に見えない分、一番大きなリスクになるんだと思う。それが透けて見えたとき、親はどれだけ辛いことか。そして葛藤の末に支援学級や支援学校を選ぶ時は、(もう一度産みなおすような)まさに「産みの苦しみ」だろうと思う。

その「産みの苦しみ」を味わった親に、院長の佐山先生(山崎育三郎)が言う。
スノードロップという花の花言葉「希望」、そして言い伝え「エデンの園を追われたアダムとイヴに、天使が舞い降ちる雪をスノードロップに変えてこう言うんです、もうすぐ春が来ます、絶望してはいけませんよ」と。

そして最後につぶやく・・「でもこうも思います、普通ってなんだろうって」。ホントにその通りだ思った。そもそも特別支援クラスに進むことは「障碍者として認めること」ーそういう偏見を親自身が、まず乗り越える必要があるんだよな。もともと健常者と障碍者の間に線を引く必要はないはずだから。

2023.2.1
BoundaryとAdviceについて。
子育てに関する心理学で、だいぶ前学んで・・最近改めて大事だと思うこと。健全な関係というのは「人の間にある目に見えない境界線を超えないこと」。それは大人同士でも大人と子供(親子)でも同じことだ。

これを国で考えたらロシアが勝手な思惑で、Boundaryを超えてウクライナに侵入したことと本質的には同じかもしれない。

人の感じ方・意思・選択・生き方はその人だけのものであって、境界を超えてしまうと害になる。意図はどうであれ(仮にその人のことを思ってのことでも)、相手の人格をちょっと否定することになる。

カウンセリングの世界で「アドバイスは良くない」というのはそのことだ。アドバイスは、「その人が決める力がないというメッセージ」になる。それに慣らされると、人は自分で決めることが怖くなる。何かあると必ず人のアドバイスに頼ってしまう。そうすると段々と生きている実感が無くなってしまうだろう。

「時と場合によってはアドバイスが必要なこともあるんじゃないか?」と以前は思っていた。今はどういう場合でも、やっぱり必要ないと思う。もちろん危険な方向に行きそうな人を勝手にさせて良いというのではなく、その場合話し合うことが必要だ。
経験が足りなくて決められないという人には、考えられる選択枝について一緒に吟味することまではできると思う。

でも最後は本人が決めるしかないし、「どう思う?どうしたい?」と本人に返すことが人格を尊重することになる。そして必ず答えは本人の中にある。というか正しい答えは本人しかわからないはず。
人が自分らしく生きるということは、何事も自分で決めるというその厳しさを、自分で引き受けるということなんだよな。

2023.1.28
金曜の夜11:15~朝日放送で「リエゾン」というドラマが入っている。児童精神科を扱ったドラマというのは初めてかもしれないなと思い、第一話から見ている。
この領域が世の中で認知されてきているんだなーと思う。ドラマによって社会の理解が進むだろうし、児童精神科医を目指す医学生が増えるかもしれないので、歓迎すべきことだと思う。

このドラマ、妙にじわっときてもらい泣きしそうになる。ADHDの研修医役(松本穂香)が、本当に「一生懸命で裏表のないADHD患者」そのものに見えてくる。そして傷ついてきた人だからこそ、相手の傷つきに共感できることがよく伝わってくる。

現在、児童精神科は診療に時間が掛かるわりに診療報酬が伴わず、専門医が極端に少ないことから扱っている医療機関も少ない。専門医の診察を希望すると新患予約が何か月も先になったりするらしい。
でも本当は、子供の発達障害の延長上に大人の発達障害があるだけなんだよな。だから特別な領域とか高い専門性が・・ということではないように思う。むしろ経験を積んで熟練することが大事なのかなと・・。

これから先、この領域は注目されていくだろう。発達障害が理解されることは「いじめ」や「虐待」「引きこもり」の闇の部分に光を当てるし、人権とか差別などの社会問題、更には「人間そのもの」への理解にも資する、裾野の広い分野なのではないか。

変わっている人を排除するのではなく、面白がって付き合っていく・・そういうことが社会を平和で豊かにするんだろうなと思う。

2023.1.19
最近ちょっと気づいたこと。人は皆、自分は「こういう人間だという信じ込み」があって、それに当てはまるように生きているんだなと。

本当はもっと違う面もあるんだけど、生きてくる過程で価値基準を押し付けられたり、学校時代に否定的なことを言われたり、あるいは傷つかないように「自己主張しない」などと自分で自分を縛っていたり。そして自分を型にはめておけば、窮屈なんだけどある意味楽なんだな。それに慣れてしまうと、何かの刺激に会ったとき自分がどうなるのか予測が立つ。

逆に「自分というフィギュア」から外れた行動をすると、途端に不安になってしまう。浮遊してどこに行ってしまうか分からない感じになる。心理学的には、自分が見慣れた景色を超える(エッジを越える)というのは、最初とても不安になるものらしい。だから今いる所が苦痛でも、そこに留まろうとする力が働く。

しかしエッジを越えていくことがその人の成長であり、希望であり、生きる原動力になる。もし超えることが怖いなら、試しに「新しいフィギュア」になりきって少しの時間過ごしてみる、そしてまた戻ってくればいい。そうしてエッジを行ったり来たりしながら、少しづつ越えていくという方法があるらしい。

そういう自分もなかなかエッジを越えられないんだよなと思う。せっかく生まれて来たんだから、自分という輪郭をぼやかして、浮遊しながらいろいろ感じて、いろんなこと楽しめたらいいんだけどなぁと思う。

2023.1.4
今日は仕事初めだったが、年末年始おそらく過去にないくらいにメンタルダウンしていた。職場に行くのが怖すぎて前日から病棟に入った。まともに職員と挨拶さえできないくらいの状態だった。
色んな理由があるんだけど、とにかく自分が仕事をすることで人の役に立っていると思えなくなった。

強制的入院・・しかし本人は病識乏しくその理由が理解できないわけだから、性格にもよるけど暴れることもあって、安全のために隔離・拘束させられる。でも入院しなければその人は暴れることはなかったし、身体拘束もされなかったということだ。

100%避けられない入院というのはそんなになくて、いつもグレーゾーンだ。だから自分は、行動制限させられている患者さんに謝って回る。謝るくらいならするな!ということなんだけど、病棟の状況からそれを継続しなければならない。

ほんとは身体拘束の指示を出したくない。だからいつも目をつむって、幽体離脱して指示を出す。それとなく看護師の意見を聞き、「客観的にみてやむを得ないよな」と理由をつけてそうする。
明らかに短期間で済むならまだいいけど、方針さえ立てられない身体拘束は辛い。毎日じわじわと責められているように感じる。患者の顔さえ見に行かない休日は辛い。休みが続く年末年始、特に今年は30数年間の仕事生活の中で一番の地獄だった気がする。