久慈~小袖海岸へ 船渡海水浴場
不思議の国の北リアス
雑感

雑感2⃣2023.

2023.12.30
先日、とある趣味の集まりに参加させていただいた。自分が知らない世界の人たちというのに興味があったし、そういう未知の場で人間関係が広げられたら面白いだろうなと思いつつ・・でも自分にはあまり社会性がないし、どんな展開になるのか全く想像できなかったけど。
お酒が入るにつれ、それぞれが自分の意見を熱く語り盛り上がってきた。まるで学生時代の飲み会のように、一見ピュアで熱血な盛り上がりだった。でも自分は違和感を感じ始めたのだった。

思ったのは・・言葉って言葉になったとたんに一人歩きするということ。そして周りの人の同意が得られると、発言者はテンションが上がって、またその方向に言葉をつなぐ。つまり場にフィットした言葉というものに、考えが引っ張られていく感じがした。反対にいまいちな反応をされると、ちょっと言い訳をしたり意見を修正する。そして次の人がよりフィットする言葉を繋いでいく・・というようなことが、酒が入っているのでエンドレスに繰り返される。

何となくその場にいる皆が同じ意見でまとまったような気になって、一体感も生まれる。でも果たしてそうだろうか?
その盛り上がりを眺めているうちに、ちょっと嘘っぽく感じられてきた。語られていることは本当にそうなんだろうか?それは人の思いであってエビデンスはないんだよなと。しかもその思いも、その人の心の底から出たものなのか?その場にフィットするように修正された言葉なんじゃないのか?そう思うとかなり怪しい。

あとやっぱり、言葉が巧み過ぎるというのもちょっとな、と思った。うまい言葉が繰り出せる人には周りが盛り上がるけど、それはどの程度の深さから出てきた言葉なの?という疑問が後から追っかけてくる。自分のように言葉が出るまでに時間がかかると(固有名詞が出にくくなってきたのも別の大きな問題!)すぐに置いてけぼりを食ってしまう。

でも考えてみると、飲み会の議論というのはそんなもんだよな。思い返すと学生の頃はそんなもんだった。真剣に趣味をやっている人たちの議論の中にいて、自分は部外者だったから醒めた見方しかできなかったということなのか。でも本来の飲み会ってそういうものなのかな?コロナ禍が長すぎて、飲み会の心構えみたいなものを忘れてしまった気がする。

そんなどうでもいいことを思いながら・・2023年も暮れていく。

でもでもとにかく、部外者の自分を参加させてくれて感謝です。開かれた会というのはある意味緊張感があり、新たなものを生み出す可能性があるということですもんね?

2023.12.2
永山則夫の「木橋」を読んだ。その人のことは先輩たちの話に聞いたことはあったが、昔の人・過去の人と思っていた。獄中で書いたこの著書を初めて読んだが、小説ではない。自分自身のことを書いている。時代背景は違うけどその感覚は今と少しも違わないことに驚いた。

網走の呼人番外地で生まれた。父が酒と博打に狂い家に寄り付かなくなり(その後岐阜でのたれ死ぬ)、母は子供たちを置き去りに実家に帰ってしまう(幼い子供4人を捨てるとはどういう神経か?)。網走で兄弟とゴミ箱を漁って生活していたところ保護された。4歳時、母の生まれ故郷である板柳に移送され中学まで地獄のような日々を送る。貧しさでギリギリの生活の中、母のネグレクトと兄たちからの暴力、学校でのいじめ・・人格否定の中で成育した。兄の暴力から逃げたくて何度も家出を繰り返すが、その都度不良扱いされ連れ戻されては母に叱られる。大人への不信感が積み重なり、反抗期はそのまま社会への恨みになっていく。常に自殺念慮と逃避行があって、それは殺意と表裏一体だった。

人はこう育てられるとこうなるんだということが良くわかる。15で東京に出て就職し、高校を出よう、まともになろうという意思はあったけど、ちょっとでも過去のトラウマが刺激されると、怒りにまかせて投げ出して姿をくらます。人間への基本的信頼がない、自分への肯定がない、何のために乗り切るか?という時に根拠がない、頑張ろうとする時に取っ掛かりが何もなかったんだと思う。

人間の持つ暴力性とか共感の欠如、そういうものがどれだけ大きな問題を産み出すかと考えると恐ろしい。永山に幼少時から注がれ続けた虐待が、永山自身のもつ攻撃性を借りて爆発した事件だったように思う。だけどどんなに悲惨な生育をしても、人を殺せるか?といったらほとんどの人はできないはずだ。

成育歴の影響は置いといて、永山の人格には冷たい他害性が垣間見える。何人か殺害したあとの逮捕前、平然と仕事に就いていたこと。高裁で無期懲役となった後に最高裁で差し戻されて死刑が確定した時「結局国家権力はこんなものか」と怒ったこと、「死刑執行の時は最後まで抵抗する」と宣言していて、おそらくそうしたらしいこと。他者への不信感、恨みは殺人をしても晴れなかった部分があったのかと思う。

原宿で無差別殺人を起こした加藤 智大と似たものを感じる。津軽の子育て文化と繋がるものがあるのかも・・と思う。

2023.10.29
久しぶりに木工をやった。新作「すずめの長屋」!
雀の餌台は作ってあるのだが、第二弾として近くの木の中に雀の巣を作ったらどうなるか?興味があった。人の気配や安全性の判断は人間と違うので、実際には難しいだろうとは思うけど。

子供の頃、近所の家の軒下の、手も入らないようなわずかな隙間に雀の巣を見つけたことがある。それに似た構造として入り口は横長のスリット状にして少し奥に深い構造にしてみた。3世帯が入れる長屋構造だ。お部屋のサイズは巾10㎝×奥行15㎝。高さは入り口8.5㎝・奥11㎝ほど)。この作りが気に入るかどうか不明だけど、それより問題は場所かもしれないなぁ。木の枝に隠れた高い位置に設置してみよう!

ちょっとした楽しみが出来た。

2023.9.12
8月末頃からかれこれ半月以上も風邪が抜けない。とても辛くシツコクて、子供の頃のインフルエンザを除けば人生でコロナに次ぐ重症度だったと思う。症状は去年8月に体験した新型コロナと似ている。てっきりコロナ再感染と思い、何度も何度も抗原検査をやったが結局陰性だった。

風邪の引き始めは鼻の奥の粘膜の焼けるような痛み・・透明な鼻水がとめどなく垂れて、職場のゴミ箱は半日でティッシュの山になった。炎症部分は毎日1~2センチづつ下に移動して行き(それが手に取るようにわかる)、強烈な喉の痛みになり、喉頭蓋を超えて気管に入るとまたまたとめどなく痰が出た。痰は最近やっと収まったけど、まだドロドロした鼻水が出ていて体調がすぐれない。

苦しいと思っていると楽になり、今度こそ良くなったかな~と思えばまた悪くなり・・症状は行ったり来たりだ(自分の免疫システムが必死に戦ってくれているんだろう・・有難う)。今回自分は「人間苦しめ菌(実態はウィルスなんだけど)」と呼んでいる。こんなに人間を苦しめて、一体何がしたいんじゃ!!

ちなみにこのところ食後に咳が止まらなくなるのもあって・・これは風邪のせいなのか加齢による嚥下障害なのか、まあ後者が主だよな。
風邪菌のせいばかりにしてはいけませんね・・。

2023.8.30
ちくま日本文学「宮沢賢治」を少しづつ読んだ。「気の良い火山弾」「セロ弾きのゴーシュ」「猫の事務所」「オツベルと象」「よだかの星」などは、イジメの問題を描き出している。人間の醜い側面をエグリ出す。そして弱いものにとことん寄り添う書き手(賢治)の姿に迫力を感じる。
人間というものは無知のまま虐める側に留まり、学んだり視野を広げることで寄り添う側にもなれる、両価的な生き物なんだよなと思う。

「グスコーブドリの伝記」は賢治の生き方のモデルなんだろう・・賢治集大成という感じがした。大変な苦境を乗り越えて、いつも賢く前向きに生きるブドリ。火山の技師になってこれからという時、冷害が続く農民のために身を捨てて火山を爆発させる。炭酸ガスが大量に発生して地球の温度が5度上昇して農民は救われるというお話。
今は地球温暖化が人類存亡に関わる問題になっているので真逆で・・そこは時代がだいぶ違うんだけど。

宇宙的な視野を持ち、科学的な発想があり、生物皆が平等で幸せに暮らすことを実現しようとした生き方・・現実離れしすぎているんだけど一気に飛び越えようとした。やっぱり凄い人だと思った。亡くなる37歳までにした仕事なんだよな・・早熟すぎる。

2023.8.12
「風の又三郎」を読んだ。というのは・・先週家族で小旅行みたいなことをして、宮沢賢治記念館を30年ぶりに訪問。その時賢治の童話集を買ったのだ。

舞台となる山の学校は、おそらく北上山地の奥深く―これぞザ・岩手という場所だ。自分が小学校低学年の頃に通った山の学校-その学校の更にずっと上流の集落からスクールバスが子供たちを運んできていたけど、そこは少し前には分校があった。物語の学校はちょうどそんな感じの場所なのだ。

子供たちはみんな元気で、川や山を毎日全力で走り回っている。山ブドウや栗の場所を見つけると、興奮して下校時間も待ちきれず勇んで採りに行く。でも自然は死と隣り合わせでもある。
いたずらして馬を逃がしてしまい、慌てて追いかけているうちに知らない所まで行ってしまう。帰り道が分からなくなり、山は霧に覆われ雨が降り、気が付くと魔法にかかったような世界にたった一人になっている。その時の心細さ・・仲間たちの温もりがどんなに愛おしく感じたことだろう。
自分もそうだったし、山の子供たちはみんな同じような体験をしていたと思う。

山の集落では大人たちも子供たちも、お互いの家庭を全部分かっていてプライベートもクソもない。隠し事が何もなくて、頭の良い子も悪い子も、器用な子も運動音痴な子も全部分かられている。だからなのか・・陰湿ないじめも無かったと思う(オープンないじめはあったけど・・深刻さはなかった)。

賢治の童話には南部弁が普通に出てきて解説なし。ほとんどの日本人は分からないだろうな~と思うんだけど、調べようもないから、そこは読み飛ばしているんだろうな。でも自分はほぼ100パーセント分かる・・今は全く耳にしないけど、子供の頃に染み付いた言葉だ。

以下その南部弁。
泣いている子のそばにいた子に、年長の子が「うなかもたのが」・・お前がかまったのか(泣かせたのか)。
ちなみに自分が子供の頃、泣いている子を慰めようとすると大人は「かもうな、かもうな」と言ったものだ。泣いている子に優しくするとますます泣くからという・・南部の非情な子育て法?
「ではってこ」・・出てこい。
「われわるくてでひとはだいだ」・・自分が悪いのに自分を叩いた。
「やんた」・・いやだ。
「そだないでゃ」・・そうでない。
「そうじしてすけろ」・・掃除を手伝え。
「木ペンとってわがんないなぁ」・・鉛筆とってダメ(よくないこと)だなぁ。
馬が手を舐めてきた時「ははぁ塩けろずのだな」・・さては塩を欲しいんだな。
「おおむぞやな」・・かわいそうにーそういえば私の母はかわいそうなことを「むぞい」と言ったものだ。
「ぶっかあす」・・ぶち壊す。
「飛んでいったのすか」・・飛んでいったんですか。

「方言」というのはただ訛った言葉というのでなく、包み込むような村の雰囲気、大人同士・子供同士の濃密な関係とか、一般的な子供の扱い方とか、そういう文化が一緒になってるんだよな。賢治の本を読んでいると、「そうそうそんな感じだった!」と自分の中で蘇ってくるんだよなぁ。

2023.7.24
昨日何年振りかで海で泳いだ話。
暇そうな息子を誘って(ホントは提出書類がギリギリだったんだけどそれは置いといて)、西海岸ウォークに出かけた。前回の続きで「岩館駅」~「東八森駅」の海岸を歩くつもりだった。暑さ対策のユニクロ・エアリズム、モンベルの日傘、日焼け止めクリーム、五能線の時刻表、行動食、水2Ⅼ、多めのコンビニおにぎりなどなど、例によって完璧に揃えて臨んだのだった。しかし・・。

秋田豪雨被害が連日のニュースとなっていて、深浦方面も少しやられたらしいことは知っていた。でもネットでチャチャっと調べてみると、「不通!!」など赤字・デカデカ表示は見かけなかった。いつも通りに時刻表が表示されるのでそれ以上確認しなかった。スマホの便利さに慣れ、頼り過ぎた結果なのだろう・・東八森駅で待てど暮らせど汽車は来ない・・ふと来る気配がないことに気づく。慌てて駅に掲示されていたQRコードを調べて、確かに汽車が来ないことを知った。

イライラしつつ能代のタクシー会社3か所に電話するも、それぞれ断られた。1か所は「八峰町内の移動は受けていません」という何だか不親切な感じの応対だった。気おされてそのまま切ったけど・・後になって「能代からメーター倒してきていいです」と言えば来てもらえたんだろうか?と思うと改めて悔しく思った。

心の広い?息子が「いいじゃん、ドライブして泳いで帰ろう」というのでそうすることにした。西海岸を南から北へ、白神山地をぐるりと回るように進んだ。岩館海水浴場は整備されてシャワー室もある。でもコンクリートで囲まれたプール状の水は腰ほどの深さしかなく、濁っていかにも汚い。

そのまま進み青森県に入り、先日歩いた大間越影の浜に出た。ここは海水浴場ではないけど、きれいな浜が続いている。西海岸には珍しくゴミの漂着もほとんどない・・勝手に泳いでも捕まるこもないだろう。ピンと来たので海に入ることにした。

浜は青や白や茶色のきれいな荒い砂が混じりあい、きれいだ。一刻も我慢できず海に飛び込む。最初冷たいんだけど、すぐに慣れてちょうどいい感じになった。
波がザッパンザッパンと、絶え間なく押し寄せる。その波に身を任せて浮かぶ。右に左に、前に後ろに、まるで海に抱かれて揺られているような気がする。不思議なんだけど、自分の存在そのものを受容される感じがした。波乗りはこの感じが洗練された遊びなんじゃないかな・・このおっさんでも、やったらきっとハマるに違いない。
ふとした拍子に、あっという間に足の届かない所に運ばれそうになる。見た目と違ってすぐ深くなる浜だ。やさしさと怖さと、海は両方併せ持つ。

細かいことはどうでも良いんだよな~。日々悩んで生きてるけど、自分以外も人それぞれいろいろあって、上手くいく人も行かない人もあるけど、ほんとはどうでも良いんだよな。生き物の存在として・・生きる上で悩みに必然性はないと、そう思った。

泳ぎが得意の息子も精神の解放を味わっているなと感じた。海に直接接すると、美しさとやさしさと、怖さを知ることもできる。この感覚は、雪女に見る美しさと怖さの共存みたいな感じに似ていると思う。

やっぱり定期的に自然に接しないと、人間はだめになるような気がする。でもホントは・・定期的というより毎日接するべきだ!!というのが実感なのだ。
それにしてもあらためて「海はいいなぁ」。

2023.3.30
昨日の晩サンドイッチマンの病院ラジオを見た。舞台はサンドイッチマン地元の東北大学病院。その中に20代の男性薬剤師が出た。茶髪にしていて、一見ごく普通の若者にしか見えない。
しかし彼は緊張の面持ちで、全国に向かって告白した・・小腸癌(アデノカルチノーマ)の診断で、すでに腹膜のあちこちに転移がある。治療の概略として、抗がん剤で5年間延命を目指すか、やらず2年の余命を生きるか?という選択枝があった。そして後者を選んだということだった。

死の宣告を受けてからの時間は地獄のように辛かった。死ねばどんなに楽かと、何度も思った。痛み止めの点滴を途中で終わらず、そのまま流し続けたら死ねるのにと。

そこを少し乗り越えて(もちろん揺り戻しはあるけど)、これからやりたいことを問われると・・できれば好きな連載漫画を結末まで読みたい、ロスの球場で地元出身の大谷翔平を見たいと語っていた。だけどその少し先に「死」があることに変わりはない。やりたいことをしてもしなくても、死ねばすべて無になる。そう考えるとやはり、儚さ空しさが付きまとう。健康な(死がずっと先に想定されるような)人が持つ夢や希望とは違う。

個人の死と無関係に、世の中は回っている・・日々の事件のニュース、商品を売るためのコマーシャルが流され、少子化対策のために総理大臣が物を言う。そういう社会という太い流れの中で個々の命がひっそりと消えていく。本人にとって世の中がどれだけ非情で、孤独を感じることか。

自分を含めて多くの人は普段、そのことを想像さえしない。それは片手落ちのような感じがした。若い人の死は、高齢の天寿を全うした死と本質的に違うんだということを教えられた。

2023.3.5
昨日は父の誕生会をした。以前と同じように有料老人ホームに迎えに行き、途中墓参りをして姉宅へ。そして一緒にお昼ご飯を食べた。母が亡くなって来月で1年になる。コロナ禍で面会がままならない中、父がなんとか1年間無事に過ごすことが出来て良かった。退屈な時間が多いだろうし、施設の生活をストレスに感じることもあるだろう。

でも文句ひとつ言わず、淡々と穏やかにしていることが凄いと思う。だいぶ物忘れをするようになったが、年齢を考えるとむしろ自然のことと思うし、今のところ生活に支障なくやれている。人柄は変わらず穏やかで安定している。自分の感覚として、認知症ではなく「年齢相応の物忘れ」だ。だから認知症のお薬とかではなく、自然に任せていいと思う。

施設に入る前から書いてきたノートを2冊預かった。そこには自分史のようなものが書いてあるのだが、94年の人生の中で印象深いのは幼少期のことだというのがよくわかる。やはり人生の密度は早い時期ほど濃密なのだ。

自分史コーナ―以外にも、新聞で気になった単語を書き出して辞書で調べて書いてあったり・・「ハグ」きゅっと抱きしめる・・というのには思わず笑った。これまで飼ってきた生き物について書いた文章もある。

「3死に一生」という題の文章では、これまで3回死にかけたことが書いてある。一度目は40代のころ。お盆に兄弟3人で船を出して転覆、一人漁網に絡まって船底からなかなか抜け出せなかったこと。二度目は定年後、囲碁の帰りに車を運転してバスにぶつかり車が大破したこと。三度目の東日本大震災では、避難先の高校の玄関に入ったと同時に波が押し寄せてきたこと。
気持ちのことは書いてなくて(もともと父は感情について言うことはほとんどない)、ドキュメンタリーみたいにただ事実を記してある。

だれのためにこうして文章を書いていたのだろう。自分のため?子供や孫のため?なんとなく書きたい気分だから?多分、あまりはっきりした目的はないような気がする。ノートの表題はMEMOと書いてあって・・日記に近い感じなのかな。きっと何度でも読み返したいはずなので、このノートは今度父に返すことにした。新しいノート1冊とペンをおまけに付けるつもりだ。

結局、自分がブログを書くのと似た感覚で書いているんだろうなと思った・・やっぱり似てるんだなー。そうしてみると自分の将来は似た姿になるような気がする。自分にとってモデルがあるということは、心の準備になる。その時が来ても無駄にじたばたせず「父もこうだったよな~。こういう気持ちでいたんだな~」と、少しは平静でいられるかもしれないなと。

2023.2.12
沢木耕太郎の「天路の旅人」を読んだ。西川一三(1918年 山口県出身)という人物の稀有な旅を、「秘境西域八年の潜行」という自著を元に書いたものだ。日中戦争の最中に満州鉄道の社員となるが、西域への夢から会社を辞し「興亜義塾」という蜜偵の養成学校に入る。ここで蒙古語を学び1943年(25歳)内蒙古から西域に向けて旅立つ。
2年後に終戦となるが、その後もチベット・中国内陸部・インドを往来する旅を続ける。蒙古人ラマ僧に扮し、最初は中国大陸奥地の情報を集めるという目的があった。それが、いつの間にか見たことのない世界を求めて旅を旅するようになり、ヒマラヤの峠を越えること9度に及んだ。

インドで逮捕され帰国したのが1950年(32歳)であったが、その後結婚してそれまでゆかりのない岩手の水沢、のち盛岡で残りの人生を過ごした。秘境の旅から帰還した人間にしては、化粧品卸しの店主という全く平凡すぎる仕事を、毎朝9時から午後5時まで判で押したように繰り返した。仕事を終えると毎日居酒屋で、ほとんどつまみを食べることなく2合の酒を飲んで帰宅した。正月の元旦以外は1日も休まず、1年364日仕事をしたという。その淡々とした捉えどころのない生活ぶりと、この人の経験した稀有な旅に興味を持ち、沢木耕太郎は本を書きたいと思うようになったらしい。

西川一三は内蒙古トクミン廟で準備を整え、周囲の人に知られないようひっそりと、蒙古人3人と共に駱駝を引いて出発した。名前はロブサン・サンボー。ゴビ砂漠を超え、アラシャン定遠営の近くバロン廟に着く。バロン廟で一人になるとしばらく滞在して、活仏デムチイラマに仕えて薪拾いをし、ラマ僧としての修業に励む。ここで「口数は少ないが骨惜しみなく働く気のいい奴だ」と周囲に一目置かれるようになる。ここでは蒙古語だけではなく、チベット語を取得して経文写しができるようになった。
それから先は蒙古人ラマ僧が聖地を巡礼するという体で、旅を紡いでいく。

その後商隊の駝夫として青海省の西寧に向かい、ラマ教の聖地タール寺に行き着く。しばらく機会を窺ったのち、チベット人数人と共に青蔵高原を超えあこがれの地ラサに向かう。この旅では途中から同行したラブランアムチト一行が連れていたヤクが、集団で勝手に川を超えてしまうハプニングがあった。この時水泳の得意な西川は急流を泳いで渡り、ヤクを連れ戻すという働きをして英雄扱いされる。

ラサのデプン寺では僧として留まるよう説得されるが、聖地巡礼を理由にザリーラ峠を越えてインドのカリンポンに着く。そこでは物乞いの巣窟で寝起きしたり、托鉢をして町を歩き食いつなぐ。火葬場で修業をしているラマ僧の弟子になり、ラマ・シーチェバ派の経文を覚える。いつの間にやら「ラマ僧の振り」は「ラマ僧そのもの」になっていったように思われる。
ここでは噂で日本の敗戦を聞き、カルカッタで正式に知ることとなりショックを受ける。

約束を果たすべく修行のためラサに戻り、デプン寺のイシ師に仕えるが、ここで「興亜義塾」の1年先輩で一足先に西域に潜行していた木村肥佐生と出会う。その時木村はイギリスの諜報員に転身し、共産化した中国奥地を偵察する仕事を負っていた。そこでなぜ同行する気になったのか不明だが、共に西康省の打箭炉まで往復3600キロの旅に出る。この旅は苦難の連続だったうえ、2人の人間関係にも葛藤が生じる。

その葛藤は帰国してからも2人の間に続き、互いに交流することは無かった。西川の「秘境西域八年の潜行」を読んだ木村は自分を侮辱しているとして怒ったという。一方西川も木村の「チベット潜行10年」の本を持っていたが、沢木に対して話題にすることはなかった。沢木に「木村はどんな人物だったか」と問われた時「彼は一人では旅ができない人です」と奇妙な返答をしている。2人旅-しかも生きるか死ぬかの極限の旅-でこういうことは往々にしてあると思う。
今の時代と全く変わらないものがあって興味深く、また身近に感じる。

インドへのあこがれを強くした西川は、チベット人僧侶と共にインドに向かい、仏教の聖地であるブッダガヤ、ラージギル、ナーランダ、サールナートを回る。そしてパキスタン国境のアムリトサルまで行き着つくが、すでにインドとパキスタンは係争状態にあり、それ以上西に向かうことは叶わなかった。カルカッタに戻り鉄道工事の人夫をして金を貯め、ビルマに行こうと思っていた矢先・・先に捕まった木村が西川の存在を報告したため警察に捉えられ、突然旅は終わった。

実はこの旅・・自分が行ったことのある場所といくつも重なる。まず1992年の「新青峰登山」では西寧-タール寺から青海湖-ゴルムド、そこから青蔵公路の途中までおそらく同じルートだったのではないかと思われる(自分の場合はただ青海登山協会のパジェロに乗って、毎食美味しいものを食べさせてもらう贅沢な旅だったが)。そして旅の後半で出てくるカトマンズ、バラナシ、デリー、アムリトサルは1985年の「インド一人旅」で行った場所だ(自分の場合は無気力で無目的な旅だった。それでもアムリトサルから鉄道で国境を越え、パキスタンのラホールに抜けてアテネまで行き着けた)。
もしかしたら、自分もあまり変わらない景色を見ていたのかもしれないという気がする。

西川一三のすごさ・・現地の言葉を取得して風貌・習慣・仕草など蒙古人から見て蒙古人として疑われないレベルだったこと。チベット語、更にヒンディー語、ネパール語をその都度習得して話せるレベルにまでになったこと。行く先々で「誠実によく働く」ことを評価され信頼されたこと。どんなに文化が違っても、人間性というのはちゃんと伝わることがわかる。

ラマの寺での生活には親和性があったと見え、その生活をずっと続けていたいとさえ思うほど馴染んでいた。デプン寺の修行では日に3回の勤行、経典の暗記などの日々を聖なる時間として有難く感じるようになった。毎日寺の周りを五体投地で回る姿・・もはや内面からラマ僧になりきっていたのだと思う。

と同時に旅すること―単純に未知の土地に行ってみたいという欲求に突き動かされるように旅を続けていた。
最初は未知の地域の情報を日本に送ることが目的だった。しかしいつの間にか自分の力だけで旅を続ける醍醐味を知り、真の旅人となった。そして敗戦後も日本に帰ろうとしなかった。

日本に強制送還されてからは、進駐軍に占領されすっかり変わってしまった日本人の姿を苦々しく思っていた。欧米の真似をして誇りを捨て、卑下するばかりの日本人というものが耐えられなかったらしい。
西川一三は同郷の吉田松陰を尊敬していた。古来日本の精神性ー蒙古-チベット-ラマ寺での修行、気持ちはそういう世界にずっと残っていたことだろう。だから化粧品店主としての淡々とした日々は一種の修行のようなものだったんだと思う。
毎晩2合の酒を飲む時間、西川は何を考えていたんだろう?日々の仕事のこと・・お金の計算だったのか、はたまた8年の旅を追想していたのだろうか。

2023.1.22
昨日は悪天候なのはわかっていたが、無謀にもちょっと山の方に出かけることにした。
数時間車を停めて置いて、帰ろうとしたときすごい吹雪になっていた。急いで乗り込みエンジンを掛ける。しかし、エンジンは掛かるがギアをドライブにしてもびくともしない。タイヤが空回りする感触もなく、リアにしてもビクともしない。そのうちディスプレイに「ギアをパーキングに入れてください」という表示が出た。こんなことは初めてだった。

吹雪によって車の後ろ側は雪山と繋がってしまっていて、マフラーはすっかり雪に埋まっている。それが良くないのか?と手で掘り返し、靴に雪が入り全身雪まみれになった。それでもやはり動かない。
ディーラーさんに電話したとしても、悪天の雪の中では来てもらうことが出来ないかもしれない・・JAFを呼ぶにしても逆に遭難の恐れもある・・焦った。翌日は天気が上がりそうだから、今日は駐車場の温泉に泊まって翌日来てもらったほうがいいかも・・とも考えた。

しかし、ちょうどブルドーザーで除雪作業をしている人がいたので声を掛けた所、男の人たち4人ほどが集まってきて、素早い動きで車回りの除雪をしてくれた。車の症状を話すと、車屋さんで仕事をしているという人が代わりに運転席に乗って、いろいろ試してみてくれた。電動ギアを何度も操作したりエンジンをふかしたりしている内に「カチッ」という音がして、ギアがドライブに入ったらしい。「ブレーキが凍ってたみたいだ」と言っていた。

そして普通通りにタイヤが動くようになったら、今度は雪溝でタイヤが空回りする。前後に動きながら、勢いつけてうまく脱出してくれた。猛吹雪で前が見えない中、駐車場から帰る方向まで示してくれた。その間、車を取り囲んだ人たちが窓の雪をずっと払っていてくれた。少しお金を渡そうとしたけど頑なに拒まれた。

思いがけずこういう人の善意に触れて、心から有難いと思った。やってくれた人たちは「え?どうってことないよ」という顔でいたけど、やってもらった自分たちにしては本当に嬉しかった。せめてもと、絵ハガキにお礼のことばを書いて送った。
久しくこういう体験から遠ざかっていたけど、自分も何か困っている人を見かけたら声を掛けたいと、しみじみ思った。

2023.1.7
昨日の晩「ドキュメント72時間」を見た。自分にとってこれが週末の密かな楽しみになっている。昨日は武蔵野美術大学、学園祭準備中の学生を捉えたものだった。在学生4000人という規模が凄い。

学生たちは、まるで小学生の図工のように作品作りを楽しんでいた。将来ではなく「現在」に集中することは、まさに生きている感じがして羨ましくさえ思う。
一方で「自分に才能があるのかわからない」と言う子が多かった。子供の頃に絵画教室に通っていたので周りの子より上手に描けた・・でもホントはどうなのか?これをやり続けて生きて行けるのか?と自問自答していた。いつも自分に向き合っていなければならないわけで、理系学部などに比べてそこは辛いと思う。「なんでもあり、でも何にもならないかもしれない」ものに情熱を持ち続けること・・若いからこそできるんだろうけど、4年の卒業時の自分の姿は見えにくい。もしすっかり醒めてしまっていたら・・と思うと怖い。

武蔵美卒業生の6割が就職するという。ガラス細工をやっていた学生は「とりあえず就職して奨学金を返して、いつか工房で作品を作りたい」と述べた。それはそれで賢いやり方かもしれない。2つの生き方を身につけていれば柔軟に生きていけるだろう。学生時代の4年間が自分のバックヤードを広げる時間と、割り切って考えればいいのかもしれない。